『コミュニティ』 佐々木将人×影山知明 ダイアローグセッション【Dialogue in the SHIP 2021 〜価値観の対話〜③】

  1. イベントリポート

ヘルスケアコミュニティSHIPのイベント「Dialogue in the SHIP 2021 〜価値観の対話〜」が2021年12月18日に行われました。
今回の記事で紹介するのは、影山知明さんと、佐々木将人さんによるトークセッション。「コミュニティ」を切り口に、関係性について対話しました。

Dialog in the SHIP とは?

Dialogue in the SHIP 2021 〜価値観の対話〜
今回のテーマは「関係性を深める。その先に生まれるもの」。関係性は「深める」だけのものではありません。ただそこにいる。会釈は交わすけれど、あえて話す仲にはならない。それぞれの人が、それぞれの場で、自分にとって心地良い関係性があるのではないでしょうか。普段、人との関係性で考えていることや、現在の活動につながる思いの源泉について対話します。4つのトークセッションをお送りします。

プロフィール

●影山知明(クルミドコーヒー/胡桃堂喫茶店 店主)
1973年東京西国分寺生まれ。大学卒業後、経営コンサルティング会社を経て、ベンチャーキャピタルの創業に参画。その後、株式会社フェスティナレンテとして独立。2008年、西国分寺の生家を建て替え、多世代型シェアハウスの「マージュ西国分寺」を開設。その1階に「クルミドコーヒー」をオープン。2017年には2店舗目となる「胡桃堂喫茶店」を開業。出版業や書店業、哲学カフェ、大学、米づくり、地域通貨などにも取り組む。著書に『ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~』(大和書房)。『続・ゆっくり、いそげ ~植物が育つように、いのちの形をした経済・社会をつくる~』(査読版、クルミド出版)

●佐々木将人(Blanket社KAIGOLEADRSコミュニティマネージャー/おうちの診療所 理学療法士)
2013年畿央大学卒、新卒で高知県の訪問看護ステーションに就職。通所介護事業所・介護予防事業等にも関わる中、人のリハビリテーションにはコミュニティやソーシャルキャピタルの重要性を感じる。現在、Blanket社では、介護に関心をもつ仲間が集うコミュニティ”KAIGO LEADERS”を運営。Omniheal社では、ヘルスケアコミュニティSHIPの運営等を行う。また、おうちの診療所目黒で在宅診療同行セラピストとして医療現場に立つ。


人との関わり方はゼロかイチかだけでなく、0.3や0.5にもなるはず

佐々木:うれしい時間がやってまいりました。影山さん、よろしくお願いします。 

影山:よろしくお願いします。

佐々木:司会からも紹介はありましたが、影山さんが具体的にどのような活動をしているか、まず聞かせてください。

影山:ご紹介いただいた通り、カフェを経営しています。それ以上でもそれ以下でもないです。今日のテーマと紐づけて言うなら、こういう表現をしていいかというのはありますが、カフェにはまちの保健室的なところがあるなと思っています。

特にコロナ渦では外出もできず人も集まれないという状況が長く続きました。そんな時にカフェみたいな場があると、ほっと一息をつけるとか、誰かの関わりの中で自分を取り戻せることってあるよね、と仲間と話していて。だから、コロナ禍であっても町のみんなを受け止められる場所でありたい、という思いで1日も休むことなく営業し続けてきました。

佐々木:営業し続けることに、いろいろと葛藤もあったのではないかと思います。

影山:そうですね。「店を開けるべきでない」という声もありました。そもそも万人合わせることはできない。だけど、むしろこういう時だからこそカフェを必要としてくれる人がいるのであれば、そういう声にこそ応えたいなと。

佐々木:僕が生活の中で触れている介護や医療の業界でも、葛藤を目にしました。

たとえば、余命わずかなおばあちゃんやおじいちゃんが、自宅では過ごせなくなって施設で過ごしていたのですが、コロナがあって家族との面会とかが難しくなってしまうケースがありました。

介護施設で働いてるスタッフは、「最期くらい家族に会わせてあげたい」という気持ちがある一方で、「誰かがコロナに感染して、施設がクラスターになったらどうしよう」と不安も抱えてるような状況でした。

また、僕も家と職場の往復で会食はもちろん NG だし、孤立みたいな、社会関係資本みたいなところをだいぶ失った状態で過ごしてきた2年だったんじゃないかと思います。

影山:そういうことってたぶんいっぱいありますよね。 いろいろなことに通じると思うんですけど、物事を判断する時に0か1かみたいな決め方をしちゃう時は多いと思うんですよね。

たとえばお店の経営もやめるか続けるかのどちらかしかない、みたいに考えてしまいがち。でも、「ここまではできないけど、ここまでだったらやれる」という0と1の間にある0.3や0.6の判断だって本当はあるはず。

医療・介護の領域でも、ひとつのひな形や制度的な枠組みの中に当てはめていっている印象があって。でも、その間の塩梅こそ、人が生きるってことなんじゃないかという気がしているんです 。

佐々木:カフェを2店舗経営する以外にも、「国分寺赤米プロジェクト」としてお米を作ったり、「国分寺地域通貨ぶんじ」を運営されたりしていると思います。そのなかで、目の前のお客さんやプロジェクトに関わってくれる人、スタッフと0.3や0.6などの関わりをつくっていく意識はしていますか? また、もし意識しているなら、具体的にどのようなことを意識していますか?

影山:「関わり」よりも、僕は重なりっていう言葉を好んで使う傾向があって。お店をやっている立場としての僕らとお客さんとでどう重なりを作れるかを考えています。

重なりができることは、僕らの一部がその人でできるということなんですよね。同時に、相手のある部分が僕らでできているということでもある。

たとえばお店とお客さんの関係性であれば、お客さん自身も一緒に店を作っている感覚を持ってもらえると、このお店のある部分は自分によってできていると感じてもらえると、より自分のお店という感覚を持ってもらえるんじゃないかと思うんです。

人間関係で考えても、僕でいえばスタッフや友人、そしてまさまさともそれぞれと重なっている部分がある。時期によって少し重なり方が薄くなったり濃くなったりすることも、自然なことだと思っています。

テーマ型のコミュニティの脆さは、個人としての重なりがあまり育たないこと

佐々木:僕はコミュニティマネージャーとして仕事をするなかで、人をどう集めるかを考えるんです。

たとえば、同じ関心軸を持つ人を集めると、重なりは元々存在することになるじゃないですか。ヘルスケアSHIPも医療に興味のある人たちが集まっているので、共通項が元々ある中で、何を選ぶかがベースにあると思っています。

一方で、影山さんが経営しているカフェや町は、目的があってそこに来ているわけでもない人との出会いがたくさんありそうだなぁと思っているんです。

影山:コミュニティを考えるときに、テーマで集まっているのかそうでないかの差はかなり大きい気がしています。たとえばSHIPはヘルスケアに関心がある人達が集まっているところであることは間違いないのだろうけど、そこにいる A さん B さん C さんが個人として重なっているかどうかという観点もあるだろうと思います。

テーマに関心があってコミュニティに集まるときは、「こういうものが学べたらいいな」と得たいものがはっきりしていることが多いから、考えているのは自分とコミュニティとの関係をどうするかなんだよね。だから、極端なことをいえばその構成員の人たち一人ひとりとは関わらなくてもいいともいえる。

佐々木:コミュニティは集合体だから、「誰」というのがかわからないですもんね。

影山:そう、集合体になっちゃう。逆に僕とまさまさとの出会いは、 肩書きを気にしたり、何か具体的な仕事を一緒にやっていこうというようなやり取りがあったわけではないよね。佐々木将人と影山知明として「どうも、どうも」と言いながら出会っているから。 

佐々木:はじめから「どうも、どうも」って感じでしたよね。

影山:そういう仲の方が、お互いの話をするし、人と人としての重なりがむしろ自然に育っていくように思います。テーマ型のコミュニティはいろんな人が集まっているし、共通の関心を持っているように見えて、コミュニティとしては個人としての重なりがあまり育っていなくて脆い。そこが、テーマ型コミュニティの皮肉だなって。

「させる」のではなく、「フラットでぼんやりした」場をつくる

佐々木:コミュニティを運営していて、ヘルスケアという関心軸がある上でメンバー同士のコミュニケーションをどうしたら増やせるか、特にオンラインだと言語的なコミュニケーションがいかに増やせるかを考えるんです。

「いかに○○させるか」を考える一方で、一人ひとりがやりたいことがあってここにいるはずなので、そういうのが出てくる瞬間を待ちたい気持ちもあって。その点でジレンマを感じているんです。

影山さんもスタッフとの関わりの中で、そういった点で悩んだことはありませんでしたか。

影山:いやー、悩みますよね。経営者やコミュニティマネージャーとしての立場としては、その場から何かを生み出すという成果に対して責任を負っている感覚があるから、何も生み出されない状況をなかなか肯定的には捉えられないんだよね

だから、ついつい仕向けようとして何かさせるとか、人を集めるとか始めてしまう。でも、「させる」も「集める」も他動詞だよね。人を集める、人を育てる、人を変えるとかもそう。気がつくと他動詞を多用してしまう。

でも、人は自然と集まってくるから「集める」ものではないし、自ら学び、育っていくものだと思うんです。

佐々木:そしたら、あまり仕掛けるという意識はないということですかね。

影山:結果に誘導するような仕掛けはしないけど、そこから創発性が生まれて何かが芽吹くような前提条件を整えることに関してはすごく気を配るし、手を打っている感覚はある。具体的に言うと、目的や議題がないフラットなぼんやりした場をどれだけつくれるかを考えている 。 

佐々木:フラットでぼんやりした場に人が集まる……?

影山:はっはっは(笑)。集まる口実は必要ではある。コーヒー淹れますとか、美味しいお菓子があるよとか、ケンタッキーフライドチキンがありますとか何でもいいんだけど。

佐々木:胡桃堂喫茶店の”もちよりブックス“って企画も「預けたい本があればどうぞ」ということですよね。

もちよりブックスとは
胡桃堂喫茶店で月に2回、朝と夜に開催しているイベント。テーマに沿った本を参加者が持ち寄り、紹介をする。胡桃堂喫茶店に「大切な本だけど、もし次に読みたい人がいるなら、おすすめして、読み継いでもらいたい」と思う本を持ち寄り預けることができる棚があることが由来となっている。

影山:そうそう、本をきっかけにってことね。

佐々木:集まる場に何を置くかは考えるんですね。

影山:そう。「この会はこういう趣旨でこういう時間にしますので、こういう振る舞いをしてください」って言うと、みんな真面目だからそうしちゃう。設計された意図に沿うように行動しようとしすぎて思っていることが言えない、みたいなことになるんだよね。

何を話してもいいし何も話さなくてもいいくらいのぼんやりした状態の時間がどれだけあって、結果的にその人の本心がちゃんと引き出されていくか。さらに、ちゃんと聞いてくれる人がいるかどうか。この二つを気にかけています。

僕はミヒャエル・エンデの「モモ」が好きって話をよくするんだけど、モモみたいに目をクリクリさせて興味あるよって聞いてくれる人がいると、話す側もちょっとずつ言葉が出てくるんじゃないかと思う。

佐々木:確かに。この場で話すべきか分からないですけど、影山さんに対する、僕の最初の印象は”膝を向けて聞いてくれる人”だったんです。「話を聞きますから、どうぞ」って雰囲気が溢れていて、すごく話しやすかったんですよね。

影山:本当に? すごく嬉しいです、それ。

佐々木:聞くことを意識されているんだなってことをすごく感じました 。

影山:コミュニティに集まるにしても、自分が本当は何に興味があって、自分の人生を何に使っていきたいのかが言葉になっていない人っていっぱいいると思うのよ。

佐々木:僕もそうかもしれないな。

影山:そう思うことある?

佐々木:言葉にして進んできているっていうよりも、人との出会いで方向性を見つけてもらってきてるって感じですね。

影山:ちょっとずつそこで自分に気づいていく、みたいな感じ?

佐々木:そうです。

影山:そうなんだよね 。就職活動なんかが大きなきっかけかなと思うんだけど、○○に勤めていますとか、こういう資格持っていますとか、こういうことを自分の人生のミッションにしてますみたいなことをはっきり言えると社会的な通りがよくなる。

多くの人は、何とか自分で外向きの”自分の説明”をつくろうとしちゃうんだけど、本当の自分とはギャップがあることも結構あるよね。でも、そういう本音みたいなものをあんまり表に出しちゃいけない感じや出せる機会が限られていることもあって、そのギャップをずっと温存しちゃうことにもなる。

「社会的処方」を必要とする背景や原因を探るべきなのではないか

佐々木:もうひとつ、僕は診療所に勤めているから、どちらかというと医者の立場として課題に感じていることがあって。医師がお薬を処方するのではなく、地域の活動やサービスなどにつなげることで社会的な孤立を解消する、といった取り組みを「社会的処方」と呼ぶことがあるんです。それは肩書きを引きずり過ぎているのでは、という感覚が僕にはあるんですよね。どう感じますか。

影山:国分寺でも医療職の方がまちに関わろうとしてくれて、とてもいい人たちだし心強い仲間なんだけど、でもなんか狭い世界で生きてきたんだなって感じることはあります。

僕自身も、カフェを始めた13年前、それまでにもいろんな世界を見たりいろんな人と関わってきたっていう感覚はあったけど、いま思うとやっぱり限定的な世界だったなって思うから。

佐々木:それは関わる人数が限定的だったのではなく、ある肩書の影山でありすぎていたという感覚なんですか。

影山:学校にしても職場にしても職場で出会う人にしても何かしら偏りってあるじゃない。たとえば、僕は前職が投資ファンドで、その前は経営コンサルタントだけど、いまはカフェだから、当時とは関わる人の世界がまた違う。

僕が結婚したのはまだカフェを開く前の2005年なんですけど、結婚式に誰を呼んで誰を呼ばないとか嫌だったから、立食なんだけど、僕らを肴にみんなで久しぶりに旧交を温めたりしてよっていう感じの式にしたら、230人くらい来てくれたの。

佐々木:すごっ。

影山:ぼくも驚いたんだけど、でもその後カフェをやることになって、そのときの参加者たちとの縁で続いてないものも多い。 結婚式に参加してもらえるって特別なことだし、それなりの深さを持って付き合っているつもりだったけど、僕の肩書きとか社会的な立場が変わることで人間関係も変わるんだなって感じて。

そういう意味では、医療者に関わらずあらゆる人が偏りを持っている自覚を持っていなきゃいけないんだろうとは思うね 。

佐々木:その経験を経て、何を感じているんですか。

影山:最近よく思うのは、いかに自分が「できる人」を前提に考えていたか。こう言えばこうやってもらえると勝手なイメージ持って人に接してきたかということ。

たとえば、人を雇うにしてもこれぐらいのお給料を払えばこれくらい仕事をしてくれるとか、これまで付き合ってきた仕事仲間をもとにしたイメージがあったりするわけじゃない。

だけど、人ってそれぞれにいろんな事情を抱えている。なかなか会社に来られなくなるとか普通にあるし、様々な経験を経て、いろんな人がいるんだな、って自分の先入観をフラットにする機会になったなと。

社会的処方については、処方というくらいだからそれが解決策として語られているわけですよね。だから、ないよりはあったほうがいいとは思います。でも、その社会的処方を必要とする人の抱える、根っこの原因みたいなものに対しての想像力が働いているのかは疑問だなと思う。

たとえば、まちの中で子育てがしやすい環境を作るために、保育所を増やしましょう、待機児童ゼロを目指しましょうみたいな話はよくあるよね。でも、いつもあれはおかしいなと思っていて。

保育所を増やすことが子育て環境を良くするんじゃなくて、本当は保育所がなくてもいい地域にすることが大事じゃないのかって僕なんかは思うのね。というのも、僕は兄弟が四人いて両親共働きで、子育てっていうものを地域で受け止めてもらえてていたから保育所が必要なかったし、そういう中で僕ものびのび育ててもらっていたという感覚がある。

だから、保育所を増やすことは一見状況が良くなっているようには見えるんだけど、実は問題を温存してしまっているだけで、それが生み出している源は何も改善していない。

だから社会的処方を必要としている人はどういう人で、なぜそれを必要としているのかを知りたいんだけど、どういう背景なんですかね。

佐々木:いやー、この質問は困りますね(笑)。僕の経験したなかから自分なりの回答を出しますね。

訪問リハビリテーション・訪問看護は、介護保険や医療保険という枠の中から行っているから、「ここまで保険でできます」「ここからはできません」みたいな線引きがあるんです。

たとえば、「もう1回あのバーに行きたいんだ」とか「もう1回あの居酒屋で酒が飲みたい」という話を聞いても、仕事としてできることは限られていて。

一緒に行くっていう選択肢を取れたらいいのかもしれないなと思いながらも、居酒屋に行ける体作りを一緒にするところまでしかできないんですよね。「バーに行きたいんやったら300m くらい歩けないと困りますので、ほな歩きましょうか」みたいな感じ。

もし、ここで社会的処方としてバー側の方でお手伝いとして付き添ってくれるような人たちがいたら、繋いでいける感じはしているんです。でも、実際には繋ぐ人はいない。生活の本当の困りごとってこういうことなのかもしれないなって感じているんですよね。

だから僕は、この肩書きだからここで終わり、といったパツッとやめるみたいなことはやめたいと思っていて。誰かに肩の半分まで乗られると嫌だけど、半分の半分の半分くらいだったらそんな面倒くささも引き受けられる。そんな自分でいたいなと思っているんです。

たとえば、僕は仕事で行ったおばさんの家に夕方行って飯食わせてもらうみたいなことをして、公私混同に働きすぎだとよく怒られているのですが、僕としては働いているといういよりも、孫として扱ってもらってた感覚だったんです。昔の村のように、他人だけど孫みたいな人だったり、近所の魚屋のおっさんなんだけど親戚みたいな人がいていいんじゃないかなと思ってます。

そういう行動に社会的処方って言葉は似ているかなと思うんだけど、言い方があんまり好きになれないんですよね 。

影山:うちの母親は今85才なんだけど、今年1月にコロナの影響も相まって自立歩行が出来なくなって車椅子生活になったのよ。実家は愛知県岡崎市なんだけど父親も数年前に亡くなっていて誰も面倒見られないし、階段の上り下りはもう難しい状態だったから、国分寺にある老人ホームに移り住んでもらいました。国分寺なら僕も気をかけられていいかなと思ったのと、元々うちの母親自身、西国分寺で育ったっていうのもあったから。

そこで、入居の手続きをいろいろするなかで、言葉はよくないけど「地獄の沙汰も金次第」とはこのことかって思ったんだよね。何もかもサービス化していて、一個一個にお金がかかる。投薬管理をするんだったらこういうのを使うのでいくらです、訪問診療を受けるんだったらいくらです、おむつを買いに行くならいくらです、みたいな感じに全部なってて。お金を払える人はサービスを受けられるけど、そうでない人はもう成す術なしって状況があるのを目の当たりにした。そして、スタッフの人が母のために何かしてくれることがあるのだとしても、それって結局お金のためなんだなって。

いまはもう資本主義の仕組みがビジネスの世界だけでなく、医療や介護や福祉の世界にも色濃く影響を及ぼしているから、いかに数字を出して自分の事業を成り立たせるかに対する意識が強くならざるを得ないよね。だから、現場のサービスなども全部お金で解決するっていう話になっていく。

それ以前に資本主義を成り立たせる仕組みが、分業して一人ひとりを単機能化して専門化させていく。「あなたはいろんな人格や可能性を秘めた佐々木将人さん」じゃなくて、「あなたは理学療法士の佐々木将人さん」って捉え方をすることになる。

「僕もできることで生産性を高めるので、あなたもその機能における生産性を最大限に高めて下さい、それで連携プレーして社会を高めていきませんか」という考えになっている。でもそうすると、関わりのほとんどは利害関係になってしまって、人と人としての重なりみたいなものはどんどん失われていく。

佐々木:分業して、「そちらで早くやってくれたら、私もこっちやります」みたいな進め方ですよね。

影山:そう。そういうところで 自分の利用価値や機能性を発揮できる人はなんとなくやっていけるけど、そうでないという人もいるし、誰だってそうではない状況のときもある

そういう時に、結果的には孤立感や社会から分断される疎外感を感じて、そういうものが回りまわって社会的処方を必要とする状況を生んでいるんじゃないかと思っていて。だから、社会的処方が必要になっている背景を自分なりに言うとするなら、社会的な分断なんじゃないのかって思う。

採用基準は「そこら辺にいる人」

佐々木:影山さんは肩書や単機能で人を扱うことに疑問を感じてらっしゃる方だと思うんですけど、カフェで単機能として人を扱うことなく重なりを大事にしつつ、経営もするってどうやってるんですか 。

影山:そうなのよね。たとえば、カフェをやるときにスタッフを募るなら、普通は飲食店をやることに向いた人、そういう要件を備えた人を取りたがるよね。カフェでの接客経験がある、調理師資格がある、パンが焼ける、とかね。

一方で、僕らの採用基準っていうのは、「そこら辺にいる人」

佐々木:そこら辺にいる人……?

影山:そうそう。普通はスペックを定めて、こういうことができる人を募集しますってすることが多いと思うんだけど、そうじゃなくて「なんとなくその辺にいる人」でいいの。カフェ側が「人がほしい」と思い、働き手側が「働きたい」と思う。そういうお互いのタイミングがちょうど合って、お互いにピンときたときに受け入れるようにしているの。そうすると、飲食店向けじゃない人も混じるわけ。

佐々木:あえて混ぜている。

影山:そうだね。入ってくるの。

もし「飲食店向けの人」を要件として人を集めると飲食店を経営することには最適化された組織にはなるけど、カフェが担う役割は飲食店の機能だけじゃないところもあるじゃない。お客さんとどう関わりを育てるかを考えることも必要になってくる。でも、「そういう方面のことは苦手です」みたいな人もいっぱいいるわけじゃん。

そんなピンチな時に店を救ってくれるのは、意外に飲食店向けではなかった人だった、なんてこともあるんだよね。そういう巡り合わせでカフェの経営を続けてこられたし、飲食店以外に出版や米作りや地域通貨といった活動が花開いてきたのは、組織としての多様性があったからだと思うのよね。

コミュニティ、たとえばシェアハウスは20代で単身世帯、というように同質性に閉じていく傾向にあるじゃない。

佐々木: 渋谷の近くで働きたいけど、家賃が高くて払えないからシェアハウスにします、みたいなイメージが僕はあります。

影山:それと比べると、ぶんじ寮は定員を上回る応募があった時には抽選で入居者を決める。そうすると本当に、10代、20代、30代、40代……と色んな人が暮らすようになる。

※ぶんじ寮とは
影山さんがまちの仲間と企画し実現した、国分寺にあるコミュニティ型のシェアハウス。 “おとなもこどもも入り交じりながら、みんなで持ち寄ってつくる、安心と冒険とが同居する一人一人の居場所”をコンセプトに旧社員寮を改修し、まちの寮として作られた。

佐々木:日本人だけでなく、カナダ人とかもいますしね。

影山:うん、カナダ人とかね。20人ちょっとくらいの関係性だけど、いろんな人がいろんな事情を抱えてたり、いろんな技術を持ってたり、発想があったりする一方で、ある部分で揉めたりぶつかったりもする。だけど、うまく付き合い方を身につけていくと同質性に閉じた時には生まれなかったであろう可能性が芽吹いて、生命力のようなものが生まれるなと感じています。

佐々木:なるほどね。影山さんが本で「人はタネで環境は土」とたとえてますけど、 このタネに直接ツンツンやることをあんまりやらないにしろ、どういった環境が関係性を育んでいくのか、関係性が育まれたその先にどうなったらいいかを考えながら環境を作っていっている感じなんですかね。

影山:入居者の選び方ひとつとっても、どういうやり方をするかでその場の価値観が大きく変わるからね。そういうことは考えています。コメントが来てるね。

サービス化することは領域を確定すること

佐々木:コメントが来ていまして ……。コメント読みますね。

「質問ではなく感想ですが、私は作業療法士です」

僕は理学療法士なんですけど 、こちらの方はOTと呼ばれるオキュペーショナルセラピストさんですね。

「私も普段セラピーの場面で、まさまささんが言われる『○○させる』への違和感を感じて作業療法士としてセラピーの意図を持ちながらも、どこかで対象者が能動的に動き出せる『○○したくさせる』を念頭においています。影山さんのいわゆる『重なり』はセラピーで作業療法士が対象者との重なりを見つけ、その重なりを対象者との共通項とすることで、その対象者が吸い寄せられて動き出すという感じで聞いていました」

……というコメントがきてます。

影山:とても素敵なコメント。これはまさまさ向けでしょ。

佐々木:そうね。「作業療法士が対象者との重なりを見つけ、その重なりを対象者との共通項とすることで、その対象者が吸い寄せられて動き出す……」ってそうなんですよ。

いままでは、仕事上ここまでしかだめですっていうのが窮屈だったんです。でも、ありがたいことに、僕のところの社長さんは好きにやっていいよって感じだったから、患者さんと理学療法士としてだけでない付き合い方をさせてもらうことができて。脳卒中の当事者さんが僕より握力が強いことを話題にするとか、サーフィンに行ってたからサーフィンを教えてもらうといった関わり方をさせてもらったんです。それが良かったんです。

影山:そうだよね。サービス化することは領域を確定させることだと思うわけ。だから何かと条件を定める話に向かうじゃない。「あなたはこういう役割です」「 いくら払ってくれたらここまではやります」「ここまではやっちゃだめです」とかね。

それが制度化の皮肉だなと思っていて、制度の中でもうちょっと上手くやるやり方ってあると思うし、どこかで制度を超えていくっていうことをしていけたらいいよね。

本当はうちの母も、有料老人ホームというパッケージの中で面倒を見てもらうんじゃなくて、まちの中でなんとなく面倒みてもらうとかもできたらなって思う。もちろん、専門の方しかできないことはあるんだけど、それ以外のところはまちの中で受け止められることも多々あるわけじゃん。そういったことを制度の外で作れるようにならないものかなっていうのはすごく思う 。

佐々木:有料老人ホームにお母さんを預けるときに影山さんが感じた違和感は、僕ひとりで解決するにはとても重たいことなので、皆さんも一緒に頑張りましょう、という気持ちです。

いまのサービス化している老人ホームの仕事は施設側としても、望んでいる状態ではないと思うんですよね。制度を超えるための工夫をしたり、新しく作ったりする必要はあるかもしれないのですが、どうしていったらいいかの解は持っていないので、いまは置いておきます。この先、一緒に考えていきたい話だなあと思ってます。

影山:置いておこう、一緒にね。

社会的処方を必要としている前提が社会的な分断や人の孤立化であるとすれば、資本主義的な力学から僕らがもう一度解放されることが大事だと思っていて。

少し前の話にも繋がってくるけど、どこかの組織に勤めて月収20万円とかを得る働き方を選ばないと生きていけない、みたいな構造が都市部にはある気がしているんだよね。だけど、そうすることだけが「自立的に生きる」ことなのかは疑問に感じていて。

人には、職業的な肩書きとか資格では語れないような良さをそれぞれ持っていたりするじゃない。その良さを発揮することで、喜んでくれる人が地域にいて対価を払ってもらえることがあるかもしれない。たとえば、あるところでは卵焼きを作ることがとても得意な人がいて、卵焼きが美味しいからってお弁当代500円払ってもらえる、みたいなことがありえるわけじゃん。

そういうことで自分の仕事が生まれ、そのことで得た対価とそこで育った人間関係が自分を支えてくれるようになると、住むところや食べるもの、学習費といった副次的な費用とかをお金で払わなくても地域の人が助けてくれることだってあるかもしれない。すると、受け取るお金は限定的だけど、社会的な役割を得ている状態だし払うお金も限定的になるから、生活が成り立つようになるよね。

佐々木:いまの話を踏まえると、どうすれば人や街との関わりの中でその人の良さが立ち現れるようになるのかを考えて、仕組み化するところまで落とそうとしている感じなんでしょうか。

影山:その感覚はある。その人が発揮した良さがある部分では仕事になっていくように、きちんと対価が受け取れるような状況にするにはどうしたらいいかもよく考えるね。 

生まれ育った西国分寺は、重なりが生まれる街になってほしい

佐々木:本のなかで「人に仕事をつける」「仕事の裏側には○○さんのっていう固有名詞がつくようにしたい」って書かれてたじゃないですか。また、影山さんは国分寺、西国分寺でいろんな人が受け止められて、かつ自分の仕事はこれだっていう、カフェの店員以外にも働きがちょっとずつ増えていく関わりがある街にしていこうと考えていますよね。

そういう環境をどう作るかを考えていると思うんですけど、一方で、先ほど話してくれたようなサービスで切りわけられている世界もあるわけで、カフェであれば、カフェという機能を切り出しているところも多いですよね。

影山さん自身も、ベンチャーキャピタルをやりながら資本主義的な世界を見てきて、いまはそうじゃない世界を作ろうとしていると思うんですけど、先に行けば行くほどどうなっていくんだろうかっていうのを聞いてみたいです。

影山:そうですね。本当に言ってくれた通りで、自分がやってる仕事ってなんなんだろうっていうことは常に自問自答してます。

もし自分たちが「飲食店をやってます」という言い方をすると、まさにサービス化されて領域を確定させるようになって、お店のスタッフとお客さんっていう、それぞれの領域を持って関わるようになるじゃない。だから「ここまではやるけど、ここまではやりません」とルールが敷かれるようになる。そうなると、重なりは生まれないよね。

そういう重なりを生まない顧客対応をいくらしても生まれことは限られていると思っていて。お金は生まれるかもしれないけど、僕がやりたいのはそういうことじゃないなと思ってるんだよね。少し大きなことをいうと、自分が生まれ育った西国分寺というまちに重なりがたくさん生まれて、社会関係資本の高いまちになったらいいなっていう思いでカフェをやってます。

だから、いかにサービス化させないかをむしろ考えています。たとえば、お店のスタッフがお店のスタッフとしての顔ではないところでお客さんと関わるようになったり、お客さんはお客さんという仮面を脱いでいかにお店に来てくれるか、とかね。肩書に囚われずに「佐々木将人」と「影山知明」としていかに会えるかを、あの手この手でやっているという感覚です。

佐々木:あーなるほど。確かにクルミドコーヒーや胡桃堂喫茶店に行くと、人が人として接していると感じますね。

影山:「○○さん」「××さん」と具体的に名前が浮かぶようになっていく感じにしたい。 そうすることで、初めて関わりがや重なりにつながるし、重なりが生まれると一人でできなかったことができるようになる。それが地域に広がっていくと、それぞれができることで補い合う働き方をしているから、生活のことすべてをお金で解決しなくても自分が生きるために必要なものはまちの仲間が支援してくれるって事が自然に起こるようになってくる。

その入り口になるのが、人に仕事をつけるってことだよね。仕事に人をつけるって事で規格化しちゃうんじゃなくて、「佐々木将人君って人なら、こういうことができる」と固有名詞が表に立つような仕事を実現できると、それを受け取ってくれた人と人としての重なりが作れるようになっていくと思うね。

いま、まさに国分寺界隈の人たちの働き方はちょっとずつ変わってきてはいるんだよね。大きな組織に勤めて給料いくらもらえますっていうんじゃなくて、なんとなく何をしているかが分かんないけどこの人成り立っているよなっていう人が結構いる。

その人がその人自身らしい状態でいられて、多額のお金が稼げなくてもちゃんと生きていける社会でそういう働き方が実現できたら、社会的処方っていう言葉も必要なくなるんじゃないかな。

佐々木:クルミドコーヒーを始めてから13年の間に、重なりをどう作っていくか、お客にお客の仮面を被せないようにどう関わっていくか、といった話を進めていっているんですね。そんななか、お金や社会関係に頼ることで不思議と成り立っている人たちが少しずつ現れてきていることを町の変化としても感じているということですか。

影山:そうだね。少しずつだけど、うちのスタッフはまさにそういう感じになっていっていますね。

佐々木:スタッフもそんな感じなんですね。

影山:カフェのスタッフという領域にとどまらない、何かしらの役割を担い始めている人が何人かいるかな。

佐々木:そうなんですね。そしたら最後にテーマに戻りますけど、関係性を深める……今回の話でいうと関係性の重なりを見つけていくことで、その先に何か生まれるものがあるんじゃないかっていうことを影山さんは思っているということなんでしょうか。

影山:そうだね。そのためには、いまの社会の枠組みと肩書きみたいなものから解放された一人の人としてその場にいるっていう前提条件がすごく大事。それは意識することからでもいいと思っていて、さらにそれを受け止めてくれる人がいると「土があることで種が芽を出せる」ケースはあるなと思うんです。

佐々木:なるほどですね。じゃあ意識するっていうこともそうだし、受け手も重要だよってことですね。

影山:そう、そういう重なりが自然と深まっていくこと。「深める」ではなくてね。そういうイメージを持っていることが大事じゃないかと思うね。

佐々木:ありがとうございます。お時間ですということで、ここで終わりにしたいと思います。何か持って帰れるものや気づいたことがあれば幸いです。ありがとうございました。
影山:ありがとうございました~。

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